ディズニーアニメに描かれなかった、あなたの知らない本当の『ピーター・パン』とは?

ピーター・パンと言う名前を聞くと、どんな少年を想像するでしょうか。

ディズニーランドのアトラクション「ピーター・パン空の旅」でもお馴染みの、子どもたちの永遠のヒーローですが、イギリスで書かれた原作におけるピーター・パン像は、ディズニーアニメのそれとはかなり違います。

そもそもピーター・パンがこの世に生まれたのは1902年、ディズニーのアニメ映画『ピーター・パン』が公開されたのは1953年で、両者には50年の開きがあります。50年もあれば解釈も多様化するのが当然。ウォルト・ディズニーもアニメ化するにあたり、独自のイメージでピーター・パンの物語を映像化しました。

ディズニーの作品は子どもが観るのに最適な、ソフトな内容にまとめた『ピーター・パン』です。これは原作と異なるダイジェスト版のようなものなので、アニメだけ観ても本当のピーター・パンの魅力はわからないかもしれません。

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大人に向けて書かれた童話『ピーター・パン』

ディズニーのアニメ映画『ピーター・パン』に代表される様々なピーター・パン物語は、英国の劇作家・童話作家サー・ジェームス・マシュー・バリーが1902年から1911年の間に発表した次の作品群がもとになっています。

・小説『小さな白い鳥』(1902年)
・戯曲『ピーター・パン 大人になりたがらない少年』(1904年)
・小説『ケンジントン公園のピーター・パン』(1906年)
・小説『ピーター・パンとウェンディ』

(1911年) 特に『ピーター・パンとウェンディ』は最終版としてまとめられたもので、世界で最も読まれているピーター・パン物語です。

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この作品の面白いところは、子ども向けのおとぎ話のような感じで書かれているけれど、子どもを対象に書かれているようには思えないという点です。

あくまで一般論ですが、イギリスという国は子どもだからと言って子ども扱いをせず、小さな大人として接する風潮があると言われています。そのためでしょうか、A.A.ミルンの『クマのプーさん』やP.L.トラヴァースの『メアリー・ポピンズ』なども含めて、児童文学なのに中身が結構真面目で堅めだったり、大人好みの詩的な感じだったり、子どもにはわかりづらいウィットがちりばめられたりしている傾向があります。

そもそも著者のバリーはセント・アンドルーズ大学やエディンバラ大学の学長を務めたこともあり、ジョージ5世から准男爵の爵位をもらっている並々ならぬ経歴の持ち主ですから、軽薄な作品を書いたりはしないのです。

さて、肝心の『ピーターとウェンディ』ですが、この作品は大人になってから読んだ方が面白いと思うぐらい、大人向けに書かれています。冒頭からじっくり読んでみると、実に味わい深い。と同時に、「これって子どもが読んで本当に面白いのか?」と疑問に思えてきてしまいます。

物語は17章からなり、前半の3章は3人の子どもがピーター・パンとティンカーベルと共に子ども部屋の窓から飛び立つまでのことが書かれています。終わりの2章は子どもたちが子ども部屋へ帰ってきてからのことになります。合わせて5章分がネバーランドでの冒険以外のことに割かれているわけですが、この部分がなかなか面白く、読み応えがあります。

アニメで割愛されている”家族愛”

ウェンディたちの両親であるジョージ&メアリー・ダーリング夫妻の描写はアニメでは完全に割愛されている部分なので、原作を読まないとその面白さはわかりません。

ウェンディが生まれた時、ジョージはメアリーのベッドの端に腰かけて、子どもを養っていけるかどうかの計算を始めます。手元1ポンド17シリングあって、事務所に2シリング6ペンスあって、事務所で飲むコーヒーを節約すればさらに10シリング増えるので、合計2ポンド9シリング6ペンスということになる・・・みたいな感じです。また子どもの医療費についても計算を始めます。おたふくかぜは30シリングで、はしかが1ポンド5シリング、風疹は10シリング・・・というように。その間メアリーは指を震わせて、夫が赤ん坊の養育にOKを出してくれることを祈っています。こういった描写は大人には面白いのですが、子どもには微妙でしょう。アニメで割愛されるのも仕方のないことではあります。

父親のジョージはなかなか現実的でしっかり者なのですが、子どもたちから尊敬されたくてしょうがない、自尊心の強い子どものような人でした。だから3人の子どもたちが自分よりもナナを気にかけたりするのが気にくわなくて、ナナを庭へ追い出したりしてしまうのです。忠実な番犬であり、子どもたちの世話を完ぺきにこなす乳母でもあるナナを子どもたちから離してしまった結果、その夜訪れたピーター・パンとともに子どもたちはネバーランドへ行ってしまいました。

ジョージは自分の軽率な行為を後悔し続け、子どもたちが帰ってくるまで犬小屋で暮らすという奇行に走ります。家にいる間は子ども部屋で犬小屋に入ったまま過ごし、朝になったら犬小屋ごと馬車で会社へ運んでもらうのです。この暮らしぶりを世間の人々は最初のうちこそ奇異の目で見ていましたが、その想いを知ると心打たれ、称賛し始めます。

メアリーも憔悴しきっています。子どもを失った悲しみで瞳は陰り、明るかった表情も消えてなくなりました。子どもたちが帰ってきた夢を何度も見ては、目が覚めて涙する日々を送っています。

子どもたちがいなくなった魔の金曜日以来、両親もナナも自分を責め続けています。しまいにはナナ自身が「犬なんかに乳母をさせていなければ・・・」と涙を流しはじめ、それをジョージがハンカチで拭ってあげている始末。

こうした丁寧でち密な描写があるからこそ、終盤シーンの感動や後日談が読み手の心にじわじわと染み込んできます。 言うなれば”家族愛”なのですが、この重要な要素が割愛されてしまうと、ピーター・パンという少年が抱えている重大な問題に気づかないまま、単なる冒険おとぎ話で終わってしまいます。

ピーター・パンの抱える悲哀

アニメのピーター・パンには弱い部分が全く見られません。永遠のヒーローにふさわしく、明朗快活で無敵です。でも原作の彼は、ヒーローではなく、ひとりの子どもです。

子どもたちが帰還する時、ピーター・パンとティンカーベルは、ひと足先に子ども部屋に着くや、窓の扉を閉じてしまいます。ウェンディを母親のもとへ帰さずに”自分の母親”として独り占めするためです。これが原作のピーター・パンです。しかも彼には、悪いことをしているという自覚は全くありません。

窓を閉めるという妨害工作を思いついたのは、言うまでもなく、自分の悲しい体験からです。生後間もなく家を飛び出したピーター・パンですが、しばらくして家に帰りたくなり生家の窓を訪れてみると、窓は固く閉ざされており、中に見えたのは新しい赤ん坊を抱いた母親の姿でした。母親が自分を待っていなかったと知れば、ウェンディも母親への未練を断ち切って、今後も自分の母親役を続けてくれるだろうと。

原作のピーター・パンは、影が足にくっつかなくて泣いてしまうような一面を見せています。また、海賊船を乗っ取った夜も、砲台の横で「いつもの夢」を見て泣いています。夢の内容は、彼自身の幼いころの記憶からくるものかもしれませんが、具体的な描写はありません。でも彼が泣く姿から、ピーター・パンが妖精の類いではなくて、繊細な心を持つただの男の子だということがわかります。

窓を閉めてメアリーが子どもを想って流す大粒の涙を見た時に、彼は生まれてはじめて、母親の愛というものを漠然と感じました。それで一度は閉じた窓を開け、ウェンディを母親のもとへ帰す決心をするわけです。「お母さんなんていらない」と強がりながら。

ピーター・パンと生活を共にしてきた6人のロストボーイたちも、一緒に帰還してダーリング家の子どもになります。彼らはジョンやマイケルと同様、学校に通うようになるのですが、彼らは成長するにつれて空を飛ぶこともできなくなっていき、同時にネバーランドの記憶も薄れていきました。

ピーター・パンだけは「大人になりたくない」と、ダーリング家の子どもになることを拒否します。その態度に彼の寂しさによる虚勢を感じたメアリーは、1年に一度、春に1週間だけウェンディをネバーランドへ行かせることを約束します。

春になってピーター・パンがウェンディを迎えに来ます。ウェンディは自分が少し成長してしまったのをピーター・パンに気づかれるのではないかと心配しますが、ピーター・パンは自分の話をすることに夢中なので気づきません。その上ウェンディが冒険の思い出話をしようとしても、ピーター・パンはもう覚えていないのです。

「フック船長って誰?」
「やっつけたやつのことなんか覚えてないよ」
「ティンカーベルって誰?」


ウェンディは次の春を楽しみに待ちます。でもピーターは約束を忘れて、次の春には来ません。ところがその次の年の春にはウェンディを迎えに来たのです。1年飛ばしたことに気づきもせず。

そしてそれっきり来なくなります。

何年か経ってピーター・パンが思い出したようにウェンディを迎えに来た時、ウェンディはすでに母親になっており、子ども部屋のベッドで自分の娘を寝かしつけていました。ピーター・パンは大人になったウェンディを見て怯えます。

結婚して子どももいる、というウェンディに「大人にならないって言ったのに!」と叫んで泣き出すピーター・パン。彼に声をかけたのは、ベッドで眠っていたウェンディの娘、ジェーンでした。

「どうして泣いているの?」

そこでピーターは立ち上がり、ジェーンにあいさつしました。
「僕の名前はピーターパンです」
「知ってるわ」とジェーンは答えます。
「きみのお母さんにネバーランドに来てもらおうと思ったんだけど・・・」
「わたしもずっとあなたを待っていたのよ」

こうして物語は最初の晩に戻ります。ピーター・パンは今度はジェーンを連れて、ネバーランドへ向かうのです。

ピーター・パンは母親の愛を知らず、大人になることを拒み続け、永遠に楽しく孤独に生き続けます。でも自分が孤独であることすら、彼にはわかっていません。そしてウェンディに求めた母性を、娘のジェーンに求めます。そしてピーターパンの母親役は、その娘のマーガレットに引き継がれます。

原作の終わりには”子どもが陽気で無邪気で残酷である限り”ピーターパンの物語は続く、と書かれています。ピーター・パンは一人で楽しく、ネバーランドでの冒険暮らしを続けています。これは現在も変わることなく続いているのでしょう。

この物語はある意味ハッピーエンドだと言えます。永遠に子どもでいたいピーター・パンは、ウェンディに出会ったおかげで、彼が無意識に欲していた母親というものの代わりを手に入れました。その娘を代々ネバーランドへ連れていくことで、彼の心の平穏は保たれていくのです。


ピーター・パンの物語は大人になってから読んだ方が、その奥深さがよくわかると思います。子どもの頃の様に時間に余裕がないかもしれませんが、暇を見つけてぜひ読み返してみることをお勧めします。

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